PHYSEST代表の市毛氏と再起に燃える古村選手のお話を聞いてきましたので、その内容を記したいと思います。また、市毛氏はトレーナー経歴はもちろん、自身も神奈川県の名門野球部出身で独立リーグも経験しているプレイヤーとしても一流の方です。
PHYSEST 代表 市毛靖人
2014年東京スポーツ・レクリエーション専門学校卒業
2015年都内某有名ジムで一般の方から著名人まで年間2000本以上のトレーニングを担当。
2015年ミスユニバース静岡県代表、日本大会5位指導
2016年フリーランスのパーソナルトレーナーへ
2017年中学生・高校生・プロ野球選手のトレーニング指導
2018年パーソナルトレーニングハウスPHYSESTをOPEN
古村徹
2012年から2015年までは、NPBの横浜DeNAベイスターズに所属。
2013年育成契約
2014年戦力外通告
2015年打撃投手
2016年選手復帰 独立リーグに所属
2019年横浜DeNAベイスターズと再契約
二人の出会い
高校生のときに共通の友人に誘われて市毛氏の引退試合を観に行ったのが、二人の初めての出会い。
決して、選手時代は特に仲のいい関係ではなく、古村選手が選手復帰を決めた時から二人の仲は深まっていったそうです。
二人の信頼関係
古村選手に市毛氏との信頼関係が凄いですねと尋ねると、「ヤスは自分が肩を痛めていることを見抜いて電話くれた事が一番印象的でしたと。」
それ以外にも野球出身のトレーナーなので、投球のときの足のつく位置など自分が気づかないところを指摘してくれ、パフォーマンスが上がることが信頼関係構築に繋がっていると話していました。
二人とも同じ怪我を抱えていた
古村選手のフォームを見ただけで市毛氏が肩の痛みを見抜けたのは、市毛氏も同じ肩のケガをしていたからだそうです。ケガ名は肩関節唇断裂、市毛氏はこのケガで手術も経験し野球人生に影響を与えた致命的なケガを背負っていたそうです。ですが、古村選手は市毛氏のように酷くなる前にケガへのアプローチができた事が選手復帰の鍵になったようです。
ケガへのアプローチは筋力トレーニング!?
古村選手の選手時代は柔軟性が失われることを重んじ筋力トレーニングは取り組まず、柔軟性の強化に取り組んでいたそうです。ですが、いくら柔軟性を鍛えても3年間痛みが消えることは一切なく、痛みを抱えたまま裏方に回ったそうです。選手としてのプレッシャーも無くなり、今まで取り組まなかった筋力トレーニングに初めて取り組んだのがきっかけで痛みが消えたと古村選手は話していました。
選手として復帰
左肩の痛みが消え選手として復帰することを決意。その頃から市毛氏が専属トレーナーとしてサポートしていたそうです。市毛氏にケガへのアプローチはどのようにしたのですか?と尋ねると、「一切肩は触っていません。身体のバランスを整えました」とお話していました。選手時代の急速はMAX138キロ、そこから選手復帰を目指し毎年のように急速が伸び、現在のMAXは150キロ。
今後の目標は155キロと話していました。古村選手はトレーニングの大切を痛感し、オフの現在も市毛氏とマンツーマントレーニングに励んでいます。
幼少期からトレーニングはした方がいいですか?
市毛氏に尋ねるとトレーニングとはストレッチから筋力トレーニングまで幅広い意味であれば、全員した方がいいと。決して筋力トレーニングだけがトレーニングでは無いので、3歳くらいからトレーニングを始めても問題ないと。ただ、トレーニングは人それぞれ違うので、自分にあったトレーニングをすることをお勧めしますと話していました。
二人の今後の目標は?
古村選手は目指せ「カムバック賞」
市毛氏は古村選手が1年間1軍で戦える身体づくりのサポートをしていきたい。
影の立役者、市毛氏のサポートによって古村選手の復帰が実現。
今後の彼たちの活躍が更に期待できる、お話しを聞かせて頂きました。
また、その後は身体を動かしに地元の小学校へ。
少年野球チームに混ざって野球をしてきました。
古村選手の人間性の良さが更に見える一日になりました。
市毛氏、古村選手、二人の今後の活躍を応援いたします。
株式会社アスティ代表取締役社長 美濃口集
1987年4月14日 31歳
神奈川県座間市出身
中学生まで座間市で育ち高校は野球留学で宮城県東北高校に特待生として進学。
大学卒業後は就職をせずにスノーボードの選手として活動し国内外を転戦。
その後、外資系企業、ITベンチャーを経験後、株式会社アスティを設立。
※お金のかけない採用方法が輸送経済新聞に掲載